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社長所感ブログ
President's Impression

1/22(月)社長所感

2018.01.22 UP

1月15日の高田弥市の命日から2日後の1月17日が父望月茂の命日です。

望月茂は昭和20年10月に高弥組に入社。入社の経緯などは「共に歩んだ砂利道人生」に詳しく掲載されています。高弥組は事業の拡大にともない土木も請負っていましたが、専門土木屋は県庁を退職した二人だけ。入社の翌日から和賀仙人の和賀川の河川改修現場で働き始めました。

 

戦後の復興期、岩手県内は昭和22年9月のカスリン台風、翌年9月のアイオン台風で大きな被害を受けました。カスリン台風では死者109人、行方不明103人、流失家屋1900戸、全壊1935戸、流失した水田1835ha。アイオン台風はさらにひどく、死者393人、行方不明316人、流失家屋1415戸、全壊1319戸、流失水田4000ha。特に一関市を中心とした県南地域に被害が集中しました。高田弥市に命じられ、望月茂は磐井川の堤防修復工事に向かい、2年6ヶ月、延べ4,600mの大工事を成功させました。

これがきっかけで高弥組は土木部門でも業界に知られるようになりました。土木工事ではあまり実績のない高弥組がこのようなビックプロジェクトを受注できたのは政治的な背景もあったと推測されます。昭和26年は

黒沢尻町役場庁舎、岩手殖産銀行惣門支店など完工高143,565千円、昭和27年日詰高校増築、花巻中学校第1期新築、小軽米中新築など167,539千円。日詰高校、小軽米中などは平成になってからその建替え工事をタカヤが受注しています。昭和28年中尊寺収蔵庫建設工事、猿ケ石河川災害、和賀川災害など225,711千円。昭和29年1月9日高彌建設株式会社設立、高田弥市社長就任。花巻中学校第2期、大迫小学校、新興製作所工場新築、宮古電報電話局新築など375,390千円。

昭和39年代表取締役に佐藤徳兵衛。弥市は会長となります。

昭和44年5月に高田弥市長男の金一郎が第三代社長に就任。翌45年1月14日午後、高田会長が突然倒れ県立中央病院に運ばれました。病室に金一郎と望月茂が呼ばれ、金一郎に「お前では会社の人たちに飯を食わせていくことは難しい。この場で望月君に社長を譲れ」。望月茂は辞退しましたが高田会長の意思は固いものでした。望月茂は曖昧にうなずいて病室を去り、その翌日15日、たった一晩入院しただけで高田弥市は帰らぬ人となりました。

昭和46年5月、時期を待っていた金一郎は代表取締役会長となり、佐藤徳兵衛が社長にカムバックしましたが、実質的な経営は望月茂が行っていました。

昭和50年11月22日、盛岡市紺屋町の本社ビルが完成し、北上から本社を移転。翌年、完工高88億円を計上し東北トップとなり、そして昭和54年3月、満を持して望月茂が代表取締役社長に就任します。

 

先週、今週と創業からのタカヤの歴史を振り返ってみました。戦前から弘前や北海道、気仙沼など仕事があるならどこへでも行くというのがタカヤのDNA。そして戦前、戦後を通じて凄まじい勢いで貪欲に業績を拡大し続けてきたのもDNA。紺屋町の旧本社から本宮に移転し10年。東日本大震災

以降、タカヤの業績は大きく拡大。これは3月11日の震災後、3週間もたたない4月1日に宮古、釜石、大船渡、石巻、仙台と一気に支店を開設したタカヤの経営のスピードの結果です。

特に過去を意識して経営判断をしているわけではありませんが、振り返ると創業者や父と同じようなことを考え、実行していることに気づきます。先人の築いた伝統をしっかりと守り、後輩につなげて行くのが私の役割だと改めて認識しました。

 

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